読物
三輪そうめんの歴史
三輪素麺は今を去る千二百有余年前、大神神社(おおみわじんじゃ:奈良県桜井市三輪)の宮司従五位上大神朝狭井久佐(おおみわのあそんさいくさ)の次男、穀主(たねぬし)が三輪の里の土地と三輪山から流れ出る清流が最も小麦の栽培に適するのを知って種を蒔かせ、小麦粉を原料に「素麺」を製造したのが始まりと言われています。
私たち日本人の歩みと共に今日まで育ってきたこの風雅な大和の味「三輪素麺」は、遠く万葉の昔には大宮人が宮廷において保存食として重宝し、御供や引き出物としても広く用いられてきました。
奈良時代から平安時代までは、従来の素麺の原形「索餅(さくへい)」と呼ばれる小麦粉をこね、縄状の麺を二つ折りにしてよじったものであったと言われています。
鎌倉時代になって禅宗が伝来した時、素麺も転機を迎えました。一つは中国の影響で油をつけて延ばすことを知ったこと。挽き臼が入ってきたことで製粉技術が進み、細く長くすることが出来るようになったこと。そして最後にこの物品名が素麺(スーミェヌ:素は精進物の意)という中国語の影響を受けて日本でもこの字を使い、これが訛って「ソーメン」と呼ばれるようになりました。いわば今日の素麺の誕生です。また、「索餅(索麺)」にかわって書物に「素麺」の文字が出てくるのは、南北朝時代の「異制定訓往来(いせいていきんおうらい)」からです。
江戸時代に入り、素麺は広く庶民の口に入るようになりました。また、お伊勢参りによって宿場町として栄えた“三輪”で食べた三輪素麺の声価が諸国へ宣伝され、素麺の製造技術を習い、全国に素麺作りが広まっていったと言われています。